まめ知識

日本橋

慶長3年(1603年)徳川家康が江戸幕府を開いた年に架けられた橋で、五街道の起点であり、日本の中心にある橋という意味で日本橋と命名されたという説が一般的である。その後火事や災害で何度も架け替えられ、現在の日本橋は明治44年(1911年)当時の東京市によって架けられ現在に至っている。平成23年(2011年)は今の日本橋の丁度「架橋100年」にあたり、様々なイベントが開催された。 現在は「日本道路元標」が設置され、国道1号線や4号線を始めとした日本中の道路網の起点になっている。

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日本橋

お江戸日本橋を出発して京に向かう最初の橋であったため京橋と名づけられたと言われる。

その橋の下を流れていた川を京橋川と称し、今は埋め立てられ高速道路が上を通る。 また京橋川河岸は江戸時代から野菜の集積地になり、特に大根の入荷が多く京橋大根河岸市場と呼ばれるようになった。日本橋の魚市場と京橋の青物市場で江戸の住民の食を満たしたわけで、この市場は明治・大正と続き関東大震災まで栄えたが、その後神田、築地と移り今日に至っている。現在高速道路下に「京橋大根河岸青物市場跡」の記念碑が建っている。

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日本橋

東京駅の西側を丸ノ内口、東側を八重洲口と称することから東側一帯を「八重洲」と呼ぶようになった。八重洲の呼称は、江戸時代初期(徳川家康の時代)この地に屋敷を構えたオランダ人ヤン・ヨーステンに由来する。

八重洲の地下に広がるのが八重洲地下街。1965年(昭和40年)の開業で、東京駅に直結した好位置にあり売り場面積は都内最大、国内有数の地下ショッピングモールである。駐車場は首都高速八重洲線に直結して、直接高速道路に出入りが出来る珍しい構造になっている。

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日本橋

日本橋を起点として南側に国道1号・15号・20号、北側に国道4号・6号・14号・17号そして都道の各路線が通り、日本橋・京橋を真ん中にして銀座・新橋・秋葉原・上野と著名な商業地・繁華街を通る都心の大動脈である。

中央通りの範囲は新橋交差点から上野駅交差点の間の南北の通りを指す。

お隣の銀座通りは休日に歩行者天国になり(秋葉原も復活)交通が遮断されるが、それ以外で中央通りの通行が全面遮断されるのは、毎年10月末に京橋~日本橋室町3丁目の間で行なわれる、東京中央大通会主催(室町大通会と共催)の日本橋・京橋まつり「大江戸活粋パレード」の際のみである。

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日本橋

戦国時代末期の人出雲阿国が元祖といわれる歌舞伎は、江戸時代にかけて京・江戸を中心にして一世を風靡した。江戸歌舞伎の始まりは、寛永元年(1624年)に初代中村(猿若)勘三郎が中橋(日本橋と京橋の中間)で櫓をあげ「猿若座」を起こしたことに始まる。猿若座はその後中村座に改称され賑わいを見せたが、江戸城に近すぎるという理由で興業物は禁止され、10年足らずで他に移された。

発祥の地にちなんで京橋の高速道路下の脇に昭和32年「江戸歌舞伎発祥の地」の記念碑が建立された。

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日本橋

東京駅の東側八重洲、京橋、日本橋地区を結ぶ無料巡回バス「メトロリンク日本橋」。

2004年3月に開業し、毎日午前10時から午後8時まで、約10分間隔で運行している。低公害・低騒音の人と環境にやさしい車両を使ったバスで、お買物、観光、ビジネスの足として手軽に利用できる。

なお、東京中央大通会は協賛・後援団体として「メトロリンク日本橋」の運行に協力している。

メトロリンク日本橋

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日本橋

中央通りを季節の花々で彩る「はな街道」は、名橋「日本橋」保存会と日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会が周辺地域と町会などの協力の下、国交省東京国道事務所と官民パートナーシップで行った道路の美化活動で、沿道の町会員や地域の住民・学校・企業がボランティアとして花壇の水撒きや歩道の清掃に参加している。

目的は日本橋・京橋地域の魅力の向上と更なる活性化を目指すことにあり、平成14年にスタート、平成18年には特定非営利活動法人(NPO)はな街道の認可を受けた。

東京中央大通会ではフラワーサポーターとしてこの活動に参加協力している。

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